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奥島孝康: |
学生にとって一番良い教育方法は、個性と個性がこすれ合うことです。この摩擦熱が学習熱に転化するんですから、そういうことを考えた大学教育のあり方を考えています。それは世界との間でも同じ効果を持ちます。それから中央と地方との間での交流も同じ効果を持ちます。もっともっとヒューマンネットワークを広げていきたいと思ってますが、今のところは世界では320校、大学周辺では7校でしょうか、こういう形でやっています。
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| 山崎拓: |
7校とは? |
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奥島孝康: |
武蔵野美術大がありますね。ここも早稲田の人たちがつくったのですよ。ですから、昔の縁を復活させようということで交流を始めました。うちには美術史もあるし建築もあるので、これを交換しますと学生たちにとっていい。それから東京女子医大がそばにあります。うちは医学部がありませんが医学関係の研究は随分やっていますので、そことも共同研究を中心に大学間で交流しています。 |
| 山崎拓: |
理工学部はあるが、医学部はないのですよね。理工学部は伝統も実績もありますよね。施設で官学に遅れるということはありませんか? |
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奥島孝康: |
施設は官学はすごいですよ。国がやることは並ではないですよ。私たちから見ると、本当に贅沢ですね。 |
| 山崎拓: |
そうすると、人材は集まらないのではないですか?早稲田の理工学部は非常に優秀だと定評がありますが、施設が官学に及ばないとなると、大丈夫ですか? |
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奥島孝康: |
ですからその中で私たちは生き延びないといけない。東大は柏に100万坪かそれくらいの土地を有して展開しています。私立大学はこれまで、やれることはなんでもかんでも東大の真似をしたために、だんだん力を失っていったのだと思います。同じことを考えて同じことをやりますと、国はものすごい金を投入する。例えば、学生ひとり当たり、東大なんかは国費から1000万円位投入される。早稲田大学は15万円しか貰ってません。授業料合わせても100万円でしょ。そうすると、10対1の予算では、うちが競争しようと思っても何でも3流、4流になるわけですよ。ですから、特定のところにわれわれは焦点を合わせて早稲田らしい志を示す分野、たとえばナノテクノロジー、これは早稲田が今COE(Center
of Excellence)に指定されました。今やナノテクノロジーと言えば早稲田ですよ。 |
| 山崎拓: |
ほぉー、それは快挙ですね。 |
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奥島孝康: |
そういう特色をつくっていかないといけない、ということで、国立と競争をしようと思っています。早稲田には理工学部みたいな狭いところしかありませんが、あの近くのJRが持っている土地の買収にかかっております。7660坪くらいありますが、そこを取得すれば国立といろんな分野で競争できるものをつくっていけると思います。今は早稲田らしいアジア・太平洋というような目標を明快にして、情報通信やナノテクノロジー、アジア学などと言われるものが早稲田ではものすごく整備・充実してきています。アジア学については早稲田はどの大学にも負けない分野にしようということで、特色を付けることによって、人文科学でも社会科学でも東大や京大と勝負しても負けない分野をつくって、しかも早稲田らしい志を示すような学問をつくっていくことができるのではないかと思います。 |
| 山崎拓: |
私は自分の外交面の行動を見ておりまして、改めてアジア指向だなと思い当たりました。政治家は、国会が休みになると、みな海外に出るのですが、多くがヨーロッパへヨーロッパへと行くのですよ。アメリカに行く人も多いが、ヨーロッパに行くということは、それはそれで全く意味がない事ではないが、政治問題としてはかなり少ない。ヨーロッパは地球の裏側でもありますしね。われわれはアジア指向であるべきだと思います。「アジア・太平洋地域を睨んだ大学の教育活動の展開」ということを承りましたが、私も早稲田出身ですから、伝統的精神の中にアジア主義というのがあるのでしょうね。 |
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奥島孝康: |
わが国のアジア主義は早稲田で盛んです。なぜかと言いますと、早稲田大学にアジア学を入れたのは小野梓先生で、小野さんの号はまさに東洋です。戦前にアジアにおいて早稲田のプレゼンスが強かったのは、そういう大学の中心的な大隈さんとか小野さんがアジアを重視していたからです。単に日本だけではなく、アジア全体を底上げしないといけない、アジア的停滞を何とかしなければいけない、そこに新しい文化・文明をつくらないといけない、ということを考えていたんですね。アジア全体を底上げするための研究機関・教育機関に早稲田大学がなろうという先人たちの想いが、アジアのいろんな人たちを早稲田に引きつけたのだと思います。ところが、この伝統がいつの間にか薄らいできてしまった。それを私は再興しようということで、総長になって7年間一生懸命頑張った結果、今やアジア・太平洋といったら早稲田大学と言われるまでになりました。 |
| 山崎拓: |
1962年、25才の時に私は初めて海外に出ました。アジアの国々を船で廻ってからヨーロッパに上陸したのですが、当時のアジアはすごく貧困でした。どうしてヨーロッパとアジアにこんなに差があるのだろうという思いにとらわれまして、結局これは政治のせいじゃないかと思ったものですから、アジアが貧困からテイクオフできる役割を日本が果たしたらどうだろうと考えるようになりました。私は福岡の玄洋社の末裔でもあるし、自分の宿命じゃないかと思って政界に出てきたんです。さっき旅の大切さをおっしゃったが、外国への旅が私の政治への志向を決めたのです。その旅でアジアの貧困に触れ、東洋の精神性に触れ、そこで政治の役割という想いに達したわけです。その後、政治家になりましたが、やっぱり早稲田の精神がいつの間にかビルトインされていたんだと実感しますね。 |
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奥島孝康: |
山崎さんのお話をいろいろ聞いておりますと、山崎さんはますます早稲田精神を体現されている方だと改めて思いました。 |
| 山崎拓: |
本当にありがとうございました。 |